マッサージとは、
習うことができるものの、
決して終わりのないものだ。
それは果てしなく続き、
その体験は絶えずより、深く深くなっていき、
さらにより、高く高くなっていく。
マッサージは、
もっとも精妙なアートのひとつだ。
それは、
技の熟達度の問題だけではない。
むしろ、愛の問題だ
テクニックを学び、
そして、それを忘れなさい。
ただ感じ、感覚に従って動く。
ただ触れるという、
そのことによって、
愛のこもった意識的なタッチによって、
体の内側の、何かが緩む。
もし、相手を愛し、
慈悲を感じることができれば、
その人の究極の
価値を感じることができれば、
また、その人を修正すべき
メカニズムとしてでなく、
計り知れない
価値を持つエネルギーとして
接する事ができれば、
また、相手が自分を信頼し、
自らのエネルギーと戯れることを
許してくれることに
感謝できれば、
そうすれば、
やがて、あなたは、
ひとつの有機体と
戯れているかのように
感じられるようになる。
その身体全体が、
有機的なオルガンの鍵盤となり、
あなたは、その体の内側で、
ハーモニーが生まれるのを
感じることができるだろう。
その人が
助けられるだけでなく、
あなたもまた、助けられる。
タッチは、この世に必要だ。
なぜなら、
「愛」が消えてしまったからだ。
かつては、
愛する人のタッチさえあれば
充分だった。
母が子に触れ、
その体とともに戯れれば、
それが、マッサージだった。
夫が妻の体と戯れれば、
それが、マッサージだった。
それで充分。
充分以上だった。
それは、
深いリラクゼーションであり、
愛の一部だった。
しかし、それが、
この世から消えてしまった。
次第に私たちは
どこに触れたら良いのか、
どう触れたら良いのか、
どのくらい深く触れたら良いのかを
忘れてしまった。
「タッチ」は、
もっとも忘れられてしまった
言語のひとつだ。
私たちは、
触れることにほとんど
怖じ気づいてしまっている。
誰もが、許されない限り、
触れられないよう警戒心を
抱くようになってしまった。
タッチとマッサージが、
セクシャルなものになってしまった。
タッチもマッサージも
セクシャルなものではない。
どちらも、愛の働きをする。
だから、祈りの気持ちを
忘れないようにしなさい。
ひとの体に触れるときは、
祈りの気持ちを持ちなさい。
あたかも、
神そのものがそこに存在し、
あなたは、
ただその神に、
仕えているだけのように。。
全エネルギーとともに流れなさい。
そして、体が流れ、
エネルギーが新しい調和のパターンを
生み出していると、
感じられる時には、必ず、
かつて一度も、感じたことがないような喜びを
感じるはずだ。
マッサージをする時は、
ただ、マッサージしなさい。
他のことは考えないこと。
あたかも、あなたの存在すべて
あなたの魂すべてが、
そこにあるかのように、
指と手の中に「存在」しなさい。
単に、手が体に、
触れることがないように。
あなたの魂すべてが
相手の体の中へと入っていき、
それを貫き、
そして、もっとも深い組織をリラックスさせる。
そして、
それを遊びにしなさい。
仕事にしてしまわないこと。
ゲームとして、楽しみなさい。
笑い、そして、
相手も笑顔にさせなさい。
かの有名なOSHOの言葉だが、
わたしにとっては、一句一句のすべてが、
師となる言葉である。
折に触れて、この言葉を刻んできた。
わたしにとっての真髄
と言っても過言ではない。
ふれるとは、
存在を深めるためのスキル。
そして、この絵は、
MI NIさん というアーティストさんの 大好きな絵。
【生命のほころび】
と名付けられたこの絵には
やさしく そっと
やわらかく ふれると ほころんでいく
つつむとそこから ゆるみ 溶けていく
というキャプションが
付けられている。
初めて、この絵を見た時、
即座に OSHOの言葉が浮かんだ
言葉のイメージそのままに
このための絵だと思った。
お店の目に届く場所に飾ってあります。
ひとの体にふれるときは
いつも、こんな風でありたいと願う。
大切な身体が
ほころぶ場所にふれる
いのちのほころびに
ふれさせていただく仕事
やめられない探究。