
前回の話:
現在、助産院の名称は【助産院 ある】ですが、
その前に使っていた名前について、当時の想いをそのまま残しています。(2020.08 追記)

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わたしが考える身体との向き合い方について、
好きな作家、よしもとばななさんの作品『王国』から、言葉をお借りして、ご紹介したいと思います。
先に、あらすじを簡単に説明します。
山奥で、おばあちゃんと一緒に薬草茶を作っている主人公の女の子が、山を降りて、都会で暮らすことになり、これまでとは違う生活や、人々との出会いを経て、新しい人生を歩みだすというお話です。
引用する一文は、物語の初めの方に出てくる、
薬草茶を作っている主人公のおばあちゃんの言葉です。
「ただ、お話をしていると、その人の悪いところがわかるから、そこに力を送るようなお茶を作るだけだよ。治すのは自分なんだけれど、みんなそのことを忘れてしまっているから、その力を引き出すためのきっかけのお茶を作るんだよ。
このお茶を飲むときだけ、本も読まないで、テレビも見ないで、ただお茶だけを飲んでしばらくじっとしていてもらうんだけれど、その人はお茶を飲むたびに、遠くの山奥にいるおばあさんが、自分の病気が治るようにかけねなく思っていることを思い出すんだ。それが、治療の第一歩なんだよ。」
~中略~
1番すごいと、私が思っていたことは、そのお茶が飲んだ人を裁くことがないお茶だったということだ。半信半疑で飲んだ人にも、何のお茶か知らないで飲んだ赤ん坊にも、犬とか猫でも、効く場合はちゃんと効いたし、効かない場合でも単なる健康茶としてちゃんと機能した。
そのお茶の働く本当の仕組みはおばあちゃんにもわからなかった。
「じゃあ、植物が育ち、人間のすり傷が治っていくしくみの、本当の本当の理由を誰がちゃんと説明できるの?テレビ番組でも本でも、私を納得させてくれるものを見たことはないよ。私はただお茶を売るだけのおばあさんだよ。それ以上期待してきてもダメなんだよ。責任は取れない、責任は本人だけにあるの。ただ、せっかく縁があって会った人が困っているなら、調子が良くなるくらいのことはしてあげたいからね。」
それがおばあちゃんの理屈だった。
~ 王国 その1 アンドロメダハイツ/よしもとばなな より~
ここでの話は、お茶になっていますが、
大切なことは、お茶でも鍼でもお灸でも、けっきょく、治すのは、自分自身の力だということ。
おばあちゃんが言う通り、みんなそのことを忘れてしまっているだけ。
病院からもらった薬を飲むにしても、手術を受けるにしても、おそらく同じことだと思います。
わたしは、東洋医学が大好きですが、けして、現代医療を否定したりはしません。
必要だと感じたら、
わたしも子どもたちも、病院に行くし、薬だって飲むし、予防接種だってうけます。
一方がいいから、一方が悪いってことはなく、
どっちも、イイトコどりでいいじゃないか、と思っています。
どちらにしたって、治す力は自分自身にあって、
他のチカラを借りているということは忘れないようにすること。
そうすれば、どっちにも感謝できる。
わたしたちの身体に備わっている治癒力というのは、
何もしないで勝手によくなるということではなく、他のモノの力を借りながらも、主導権は渡さないところにあるんじゃないかと思うのです。
そして、もう一つ。
この文章は、
"たえず、こんな風にたずさわっていきたい"という施術者としての立ち位置を思いださせてくれます。
わたしの技術がどんなに優れていて、
どんなに人の身体を癒したとしても、それはわたしの力だけではないということ。
自然の摂理の元、
生きているわたしたちの身体というものは、わたしたちの頭では想像もつかないほど、精密で完璧です。
そして、けして、人を裁くことがない。
この世界に、100%絶対といえるものは存在しないといいますが、それは嘘です。
アナタの身体は、100%絶対、アナタの味方だからです。
見た目には一見、悪いと感じることさえも・・
それは、宇宙の法則や宇宙の仕組みとよばれているものに、よく似ています。
氣の流れや血液の流れを良くするための後押しはできたとしても、流れる向きを変えることはできない。
だから、いま、目にみえる現象だけにとらわれて、
「わたしが治します」なんておこがましいことは、けして言えないのです。
とはいっても、
せっかく縁があって会った人が困っているなら、
精一杯、プロとして、調子が良くなるくらいのことはしたい。
こころから、そう思うです。
それは、私がひとめぼれした東洋医学にも共通しています。
江戸時代に書かれた「家庭の医学」に出てくる言葉、
その響きが、すべてを現しているような気がします。
